[ この本に灘一の事が書かれている ]

ますます、さだまさしの事が好きになってしまいました。
この本も素晴らしい。
なかでも、さらばミヤモトマン・タロウ、灘一、おじいちゃまの膝、最後の客、福田幾太郎に、グッときた・・・・・いや~、まいりました。

先に書いた「灘一」に間違いがあってはいけないと思い、取り寄せた「いつも君の味方」。
(既に絶版となっていたため、ネットで検索したらアマゾンの古本があった)
人間の記憶は当てにならないもので、やはり間違っていた。

記者は大阪の朝日新聞の赤塚という人で、「昔タクシーがどこまで行っても1円の頃、1升5円の「松竹梅」と言う酒があったが、どうも現在の「松竹梅」とは違う酒ではないかと思う。
現在も松竹梅酒造という酒蔵あって、そこの酒がまた非常に旨いらしい。もしかしたらこれが昔1升5円で売っていた酒かも知れない」と言い、酒好きのさだに後日「灘一」を送ってくれた。

以下本文より抜粋。

阪神大震災の前年に、さだまさしのファンクラブ、「まさしんぐワールド・フェスティバル」の一人芝居のなかで「灘一」を取り上げた。
その前年に赤塚記者が癌で急逝。大好きだった記者を偲ぶ思いからだった。
これをビデオにした。

大震災の後、親類のお嬢さんが、そのビデオを持って松竹梅酒造の社長のもとへ走り込んできた。
「さだまさしが灘一のことをほめているよ」と言われ、驚き、どうしても自分の酒とさだまさしがつながらなかった。ビデオを見ると、確かにさだまさしが「灘一」のことを話している。
さだまさしが自分の酒をなぜ知っているのかはわからないが、知らないところで自分の酒は一人で生きている。そして今、自分の酒が意外なところで自分を勇気づけようとしている。
震災でなにもかもしぼんでしまった胸に、明かりがともったようだった、と後に語った。
この時、めらめらと心が立ち上がった。
「よし、絶対にこの蔵を守ろう」と。

後日送られてきた「灘一」に添えられた手紙には次のように書いてあった。
「さだまさしがうちの酒が旨いと言っているんだから、もう一度頑張ろうって。・・・・できたてで、ラベルもありませんが、この酒をもう一度造ることができたら、最初にさだまさしさんに呑んでもらおうと思っていました」

さだまさしは、震災から2年後の2月26日、神戸でのコンサートを行う昼、松竹梅酒造を訪ねた。
年配の杜氏さんや野田社長の嬉しそうな顔を見ながらひんやりとした倉を歩いた。搾り機からちょろちょろとこぼれる生まれたての新酒を利き酒しながら近くで瓶詰めしているおばちゃん達の笑顔がいい。皆あの震災というカタストロフィを生き抜いてきたのだ。そう思ったら手を合わせたくなる。
「元手が返ってこない。ま、言うたら、旦那商売ですね」
野田さんが穏やかに言う。
なるほど、これが文化なのだ。あの未曾有の危機を生き抜き、苦しみを乗り越えた人々のこれは「生きる叫び」なのだ。体が震えて仕方なかった。

神戸ハーバーランドに仮設された国際ホールで、あのとき無力だった僕に、拍手は苦しいほど暖かだった。生命はあっという間に訪れ、あっという間に去る。生まれ、悩み、苦しみ、喜び、笑い、泣き、懸命に生きていつか死ぬ。
だがその短い時間に自分という「文化」を自分の中に創ることが出来るはずだ。耳に痛いほど誠実な拍手が僕の心を揺さぶった。

感動でなかなか寝付くことのできないこの晩。野田社長がわざわざ自ら楽屋に届けてくれた幻の名酒と、じっと向き合った。

人の縁とは不思議なものだ。
赤塚さんが生きていたら、この震災をどうとらえ、どう語ったのだろう。そして「灘一」の復活のドラマをどう見つめたのだろう。
人の出会いは、別の人を思いがけないところまで連れてゆくものらしい。
僕は、赤塚さんの生前、一度も一緒に呑むことのできなかったこの幻の名酒「灘一」を、その晩やっと差し向かいで呑んだ。

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