作曲家寺島琢哉氏との縁は20年ほど前、知人の紹介でアルバイトに来て貰ってからである。
当時まだ学生だったと記憶しているが、とても素直な好青年だった。
その彼が音楽家を目指してニューヨークへ旅立った。
ニューヨークへ着いた彼が人のつてで紹介され、ニューヨーク滞在の8年間師事したのがジミー・スコットであり、そのジミー・スコットの音楽の師匠がビリー・ホリデイだと言うのだ。
何とも奇遇な話である。
余談だが、ジミー・スコットの弟子には有名なマドンナなどが名を連ねているそうである。

さて、肝心なビリー・ホリデイの人生である。
不出生のジャズシンガーとしての名声も高いビリー・ホリデイだが、その人生は哀しく且つ不遇なものだった。
1915年4月7日、バルチモアの地で、15才と13才の両親、母セイデイとクレランス・ホリデイの間に(後の研究では母19才、父17才、それより6才上との説もある)婚外子として生まれ、10才で強姦され15才の時には売春罪で投獄されると言う哀しいというか痛ましいほどの少女時代を過ごしている。
(父、クレランス・ホリデイは後にフレッチャー・ヘンダーソン楽団などでギター奏者として活躍している)
ビリーホリデイは9才と11才の時施設に入れられたが、その後は学校にも行かず、エルセル・ムーアと言う売春宿の経営者の所へ入り浸り、そこで良く歌っていた。

20年代後半、当時ニューヨークにいた母の所へ行くが、母が探してきた勤め口もすぐに辞めてしまった。
この頃母と共に売春罪で投獄されたが、彼女が売春を職業としていたのかいなかったのかは定かではない。
この頃から歌うことに夢中となり、独自の歌唱法も身につけてそれがまた人気を呼んだ。
後にジャズ史上最大の女性シンガーと呼ばれるようになるビリー・ホリデイだが、そこに至るまでには最初に彼女の異才を見いだしたジョン・ハモンドやレスター・ヤングなど様々な出会いを得て、コモドア・レーベルに吹き込んだ「奇妙な果実」により一気にスターダムに駆け上がった。

「奇妙な果実」
詩人ルイス・アレンから見せられた一遍の詩。
それはリンチによって殺された黒人が木につるされている南部の悲惨な様を描いた詩だった。

南部の木々に奇妙な果実がむごたらしくぶらさがっている
その葉は血に染まり、根元にまで血潮はしたたり落ちている
黒い遺体は南部の微風に揺れそよぎ、
まるでポプラの木から垂れさがっている奇妙な果実のようだ
美しい南部の田園風景の中に思いもかけずみられる腫れあがった眼や苦痛にゆがんだ口、
そして甘く新鮮に漂う木蓮の香りも、突然肉が焦げる匂いとなる。
群がるカラスにその実をついばまれた果実に雨は降り注ぐ風になぶられ、
太陽に腐り、遂に朽ち落ちる果実。奇妙な、むごい果実がここにある。

 
この詩に深く心を揺さぶられたビリー・ホリデイはそれに曲を付けて歌った。
時は1939年、ビリー・ホリデイ24才、まだまだ人種差別が激しく渦巻いていた時代である。

その僅か3年前のベルリン・オリンピックで、ヒットラーのゲルマン民族こそ世界最高の民族の証明という野望をうち砕き、陸上競技の100M、200M、走り幅跳び、400Mリレーの4つの金メダルに輝いた世界的英雄、ジェシー・オーエンスさえも黒人という理由だけでまともな扱いを受けられないどころか、その後は犬や馬との競争などあまりにも酷い扱いを受けている。
後にベルリンオリンピックはオーエンスのオリンピックと称えられているほどの世界的英雄に対してさえこれ程の扱いをして尚恥じなかった時代である。
オリンピックについて言うならば、それから24年後の1960年ローマ・オリンピックのボクシング金メダリストカシアス・クレイ(モハメッド・アリ)もあまりの非礼な扱いに怒り金メダルを川に投げ捨てたと言う逸話も有る。
ともかく、それ程激しい人種差別の時代に「奇妙な果実」を歌ったその勇気、その気概には敬服するばかりである。

ともすればアフリカ系黒人は環境に唯々諾々と順応する、ただただ柔順な(そのように馴らされた)人々と思いがちであるが事実は全く違う。
あの有名な奴隷船では勇猛果敢な反乱や、スコールの時、体を洗わせろと言って甲板に出て一斉に海に身を投げたと言う史実もあるように、元々誇り高き民族なのである。
そもそもハイチなどで展開されたプランテーションの労働力としてアフリカから連れてこられたのがアメリカ大陸での奴隷の始まりとされるが、それを企てたのが当時の司教であり許可したのがスペイン国王だった。

また実際に黒人をかり集めたのは同じアフリカ人であった事を思えば、人間の裏切りというものがどれ程醜く恥ずべき事か解る。(このへんに付いてはハイチ革命を主題にした、ブラックジャコバン【増補新版】 トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命. 著者●C・L・R・ジェームズに詳しく記されている)この頃、奴隷は過酷な労働と冷酷非情な待遇の中、3ヶ月から6ヶ月で死んでいったと言われている。

30数年前、ボールディングが著書「宇宙船地球号」で唱えた4つの危機の一つ。【人種を越え、宗教を越えて人類が調和出来得る哲学の不在】が解消されるのはいつの日だろうか。
私はいつも思うのだが、世の中のシステムとしての矛盾はその中心に人間主義が有れば大概のものは解決の方法があるはずである。
曰く、国家や組織の論理。
曰く、権力や権威の論理。
曰く,利潤追求の論理。
これらの論理の前にどれ程の人が犠牲になってきたことか。
世の中には美辞麗句に隠された矛盾があまりにも多く蔓延りすぎている。

寺島氏との話はカーネギーホールでのビリー・ホリデイとサラ・ボーンの競演の様子、黒人指導者キング博士の有名な演説「私には夢がある。いつの日か私の子供達と白人の子供達が仲良く遊んでいる・・・」、そして「武力で制圧した者は、征服された者にいつか必ず精神性において負ける」と言う意味の話で終わった。
彼女の歌が哀し聞こえるか? については、アーティストの心が、あるいは作曲家の心のひだが感じられるような音を常に目指しているので、多分JJのMasterが考えているような音が出ていると思っている。ビリー・ホリデイの何とも言い難い凄みと言うか侘びしさ、哀しさに満ちあふれた独特の歌唱にアフリカ系黒人の苦悩に満ちた悲惨な歴史を見る思いがしてならない。
「人に名誉を与えるのは、心であって、評判なんぞではありませんぞ」とはベートーベンの第九の詞でも知られる劇作家シラーの言葉である。

ビーリー・ホリデイの屹立した精神と素晴らしき歌に最敬礼。

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